2009年に第一子 長男、
2012年に第二子 長女、
2014年に第三子 次男が生まれ・・・、

2016年今月、第四子 三男が生まれました。

第四子誕生

思い返せば、

2009年に長男が生まれた頃から、妻より
「出産、立ち会ってほしい」と頼まれていました。
それを聞いた私は、何故かどうしても嫌なので、断固として断りました。

2012年の長女が生まれる時も、
「出産、立ち会ってほしい」と頼まれていました。
その時も、何故かどうしても嫌なので、断固として断りました。

2014年の次男が生まれる時も、
「出産、立ち会ってほしい」と頼まれていました。
その時も、何故かどうしても嫌なので、断固として断りました。

・・・

これらの「何故かどうしても嫌」という感情は、
自分でも、何故嫌なのか、何故これだけは避けたいのかは、分かりません。

「出産の立ち会い」を避けることが出来るのであれば、
他のことはどんなことでもする。

「出産の立ち会い」を避けることが出来るのであれば・・・

妻の肩揉みでもする。
幼稚園の送り迎えだってする。
妻の代わりに家事は全部する。
嫌いな牛乳だって飲む。
嫌いなブロッコリーだって食べる。
嫌いな人たちが集まるパーティだって参加する。
どんな罰ゲームだって受ける。

・・・だから、どうか「出産の立ち会い」だけは勘弁してほしい、
という感じです。

このことについては、妻と何回も話し合いました。

それでも、4回目(4人目)でも、なお、

「出産、立ち会ってほしい」と頼む妻。

・・・

・・・この約7年間、妻も色々レベルアップをしたのでしょう。

「もし、今回、出産に立ち会ってくれたら、
私の心の中にあるジグソーパズルの最後の穴…、
最後のピースが埋まるかもしれない」

と話してきたのです。

これは、何故か私の心にガツンと響きました。

そして、“私の本来の目的”の1つをガツンと思いだしました。

“私の本来の目的”の1つは、生涯をかけて妻を幸せにすること。
私は、妻のためにも生まれてきたのだということ。

これによって、
私にとっての一大決心。

今回は、「出産、立ち会う」と決めました。

 

・・・

一度 約束をしたからには、必ず約束は守るのですが、

実際に出産が終わるまでは、自分が自分で無いような感じでした。

基本的に何が起こっても動じない私が、

出産当日には、何度もトイレに駆け込み、
頭がグラングランしていました。

実際に立ち会って無事に産まれた時でも、
よく話に聞く「感動」よりかは・・・、

「外出中、超トイレピンチになって、今でも下半身の失敗をしそうなときに、
近くのコンビニに駆け込み、さらにそのコンビニのトイレは既に使われている状態から、
ようやく中の人が出てきて、
トイレの中からカギをかける時間やズボンを降ろす時間にも“失敗”しそうで、
一刻一秒を争い、超ギリギリ間に合った」

という瞬間のような感覚でした。

・・・でも、

妻の顔を見ると、本当に立ち会って良かった。

・・・
・・・

結局、何が言いたいかというと、

もし、自分に「何故かどうしても嫌だ」ということがあった場合、

もし、それがトラウマだとしても、
それが、ただただ「自分の感情」に限ったものであるならば、

出来る限り、「その感情」と向き合い、勝負してみようという話。

多くの場合、「自分は何故かどうしても嫌だ」というものの中に宝物が眠っています

その宝物は、直接的に自分が喜ぶものでないかもしれませんが、
自分の大切な家族や仲間にとって必要なものかもしれません。

その結果で、自分も本当の喜びを感じるものかもしれません。

深層心理という「心の洞窟」を進むのは、
何故かどうしても怖いし、実際に危険が待っていることもあるかもしれません。

でも、勇気を出して中に進んでみよう。

もし、その時のレベルでは勝てない敵が現れれば、一度退却してもいいし、
「本当は勝てることが分かっているのに、ただ怖い」というのであれば、・・・きっと大丈夫。

どうか、本当の宝物を手に入れた喜びも感じてほしいです。

・・・今回、父ちゃんが見つけた宝物は、君たちの「母ちゃんの笑顔」。

・・・そのための経費は、「単なる自分の感情」(…と、トイレットペーパー数本と胃薬)。

最高のコストパフォーマンスでは?